素敵な赤城山。イニDの功罪。
赤城山は変わりません。
昭和の雰囲気そのまんま。
この看板は少し狙ったものかもしれませんが、大沼湖畔のレストハウス群も昭和から変わっていません。
S207のルーフの上にみえる赤い橋のところは湖上の赤城神社。
でも走りの環境はいくつかの理由で大きく変わってきたようです。
90年代初めころまでは二輪も四輪もとんでもなくうまくて速い人々がおりました。
1.1995年 イニシャルD連載開始。
それまでは県内の車好きがそれなりのマナーとルールを保って走っていた気がします。
だんだん県外ナンバーが増えてきて。事故も多発してきて。
アメリカで6年暮らして帰ってきたら浦島太郎状態。
群馬県中のお山が速度抑制舗装になったのはいつだったか。
帰国後、Aライ取って、サーキットライセンス取って、サーキットを走り出しました。
2.2011年赤城山ヒルクライム
赤城山が自転車のメッカになりました。毎日、時間を問わず多くの自転車が走りを楽しまれていて。
これで私の気持ちは「赤城山は自転車優先」に完全に切り替わりました。
今では見通しのきくコーナー一つ二つを楽しむことはありますがその程度です。
イニシャルDは好きなコミックですが、たまに「イニDなかったら・・・」と考える時もあります。
赤城や榛名の速度抑制舗装はなかったかもしれないし、昔から走っていた地元の(名前も職業も知らないけど車は知っていた)おっさんたちと今でもたまには缶コーヒーもってだべっていたかもしれません。
旧料金所から赤城山総合観光案内所まで11.9km。標高差890m。年に1日、4時間だけ公道封鎖してのヒルクライム(二輪四輪車の)が行えると素晴らしいといつも考えています。
STELLA55さん
考えさせられるご投稿です。
この看板記憶にあります(笑)
ハズしてはいない(笑)
95年〜98年くらいまででしょうか。赤城はお膝元、日本全国走り屋が峠に集まりました。
当時は日産SR20搭載のシルビア、180、GTRもどきのGTS-t、FC、FDの高橋兄弟。四駆はインプとランエボ。
セフィーロ、ローレルの4枚ドアもいました。ターボ勢はブローオフプシュプシュ(笑)楽しくもあり後ろめたさもあり。非力なAE86とシビックSIR、FRとFFの戦いはリアルに体現しました。
Aライ、サーライお持ちのSTELLA55さんはきっとKINGだったのではと思います。
時代は環境車へ移行していき、FRスポーツカーはロードスターを除き次々と消滅しました。
少しかじった私が言うのもおかしな話ですが、チャリを楽しむのも大いに結構、でも隣り抜くときはかなり怖いです。チャリ(ロードバイク)こそ群サイ!
浅間山でやっていたでしょうか。県警のお墨付き公道封鎖のヒルクライム楽しそうでね!
投稿: HAZ | 2021年6月12日 (土) 18時06分
HAZさん
赤城山、お詳しいです!
80年代首都高、湾岸、部分開通していた常磐自動車道。フルチューンL型が大台を目指して。
90年代お山では三菱・スバルのAWDがチューンド二駆に「四駆はずりー(ズルい)」とか言われながら。
あんなに面白い時代の空気を吸えただけでもよかったです。
サーキット走り出した後、「昔は良く事故らなかった・・・」と真っ青になりました。若気の至り(汗)
自転車楽しむ方々とすみわけできると良いです。
「赤城ヒルクライム」は昔走っていたおっさんや今走っている方々が自分のペースで走って、終了後は大沼湖畔のお店とか缶コーヒー持ちながらだべったり、群馬流で気取らない大会にしたいです。
投稿: STELLA55 | 2021年6月12日 (土) 22時55分
STELLA55さん
赤城のイカした看板は数年前に訪れた際に見た記憶がありました。
四駆ずり〜です!トラクション効いてロスがない!日本の峠はGT-Rのアテーサではなく、インプ、ランエボでしたね。ギャランVR4、レガシィRSも好きでした。真冬の夜中、山形蔵王でイエローバルブに変えたフォグを頼りに走ったものです。湾岸ミッドナイトののようなオーバー200マイルの世界では最強かも知れません…あっ地獄のチューナーが触ったミッドナイトブルーのロングノーズショートデッキのFRマシンは別です。
オッさんが集まって古いポッカの自販機で缶コーヒー。いいです!
投稿: HAZ | 2021年6月13日 (日) 17時43分
HAZさん
イエローフォグ煌めかせて真冬の山形蔵王・・・ん~、カッコいい!
赤城山(内燃機関車)ヒルクライム、安全には日本一留意したうえで、ポッカの缶コーヒーでだべるような、なんといいますか昭和~平成前半の峠の雰囲気にしたいです。
自動販売機の天ぷらうどんも欠かせません!
投稿: STELLA55 | 2021年6月14日 (月) 12時46分